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言葉狩りとしての「ポリティカル・コレクトネス」

ポリティカル・コレクトネスは、政治的正しさ、政治的適正、政治的妥当性などといわれるが、少数派に対する配慮や差別廃止の意図に基づき、中立的な表現を用いることをいう。これは法律的に正しいということではなく、むしろ政治的に正しい点が強調される。

卑近な例では、ビジネスマンはビジネスパーソンに、看護婦は看護師に、スチュワーデスがフライトアテンダントに言い換えられてきている。しかし、このポリティカル・コレクトネスが行き過ぎると、言葉狩りに発展することになる。ビジネスマンなどは、”man”という単語に人間や人類という意味があることを考えれば、わざわざ言い換える必要性もないかもしれないともいえるが。

そして、このポリティカル・コレクトネスは、馬渕睦夫『日本を蝕む新・共産主義』(徳間書店、2022年)によると、形を変えた新しい共産主義の一種であるという。たとえば、日本への移民の受け入れは、ポリティカル・コレクトネスと言論弾圧がセットになって着実に進められているという。2016年に施行されたヘイトスピーチ対策法も日本国民を分断する政策の一つとなる。外国人に対する正当性のある苦言ですら、ヘイトスピーチだとメディアがレッテルを貼れば弾圧できることになる。既存の価値観を破壊する共産主義の浸透は、アメリカ社会では深刻であるが、日本にも着実に浸透しているようである。

最近では森喜朗会長の女性蔑視発言があったが、ちょっとした言葉尻を捉えて人を失脚させることが容易になる。そもそも人が何を思おうが感じようが人の自由なはずである。内心の自由は憲法19条で保証されているにもかかわらず。そのうち政府あるいはメディアは人の心の中にまで介入し、寄って集って非難することすら可能になるかもしれない。これはまさしくキャンセル・カルチャーといわれるものであろう。

そもそも少数民族や女性、障害者、同性愛者らに気を使い、発言に注意するのはマナーのレベルで十分で、ポリティカル・コレクトネスという弾圧の道具までは必要ないのではないだろうか。明らかに分断の道具として有効なのがポリティカル・コレクトネスであり、ある意味で物理的な暴力ではなく、言葉の力による社会変革を達成するための方法なのかもしれない。

本来は、その国の文化や伝統、歴史に根差した規範や道徳によって、言葉を選べる社会が健全であり、ポリティカル・コレクトネスのような概念を持ち出すまでもないのではないか。私たちの社会がどこに向かっているのか不安になる社会活動の一つといえるかもしれない。

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