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すべてが英語で済む時代は来ない

日本語と英語で同じことを言ったり書いたりしても、伝わる内容やニュアンスは大きく異なります。自分が生まれてから使用して自然に身に着いた言語を母語(mother tongue)といいますが、母語で書かれたものを英語に翻訳したからといって、執筆者の伝えたいことが読者に伝わるとは限りません。

夏目漱石の作品は、多くの日本人に愛されています。しかし、水村美苗『日本語が亡びるとき』(筑摩書房、2008年)によると、日本語が読める外国人のあいだで漱石の評価は高いものの、日本語を読めない外国人のあいだで漱石はまったく評価されていないそうです。

雑誌のニューヨーカーの書評に、英語で読んでいる限り、漱石がなぜ偉大な作家だとされるのかさっぱりわからないと書かれていたそうです。日本文学の良し悪しが本当にわかるのは、日本語が読める人の特権ということのようです。

グローバリゼーションの流れで、英語であらゆることが済んでしまうと思う人もいるのかもしれませんが、世の中がそんなに浅薄な有り様ではないと気づける一例ではないでしょうか。

私自身も経験するところでは、フランス人のフランス語によるユーモアを、日本語に訳したところで、そのおもしろさは日本人には伝わらないことを感じます。フランス独特の人間関係や生活習慣、文化的背景などがわからなければ、日本のように上下関係やタテ社会に染まって生きてきた人間には、そのおもしろさが伝わらないのだと思います。家族の関係性もフランスと日本では相当異なります。

水村氏の書籍は、私たちの母語である日本語を守ることの大切さ理解するのによい本です。小説家の書いた本なので、ご自身の物語も含めて、本の構成自体が冗長なため、はやく結論を知りたいと思うせっかちな人には向いていないかもしれませんが、ゆっくり小説を読むゆとりのある人であれば楽しめるのではないかと思います。

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