英語ができるとビジネスがうまくいくとか、英語が公用語の国は発展すると思っている人もいるかもしれません。シンガポールやインドをみると、それも正しいのかと思いたくなりますが、どちらの国も多言語国家のため、英語という共通言語が必要なだけです。結局、多くの人が必要に迫られて英語を学んでいるということになります。
翻って日本を考えると、各地方で方言はあるものの、日本語という共通語があります。青森県の津軽地方に住んでいたとき、現地の人の言葉が、話者によっては英語なみかそれ以上に理解できないことがありました。ただ、私が話す日本語は理解してくれていたので、何とか相互理解は可能でした。その点、言語に関して私たちは恵まれているといえます。ですから、このアドバンテージを生かして、英語教育以上に日本語教育に力を入れ、それこそイノベーションを起こす教育や、成熟した哲学教育といったものが必要なのだと思います。
藤原正彦『祖国とは国語』(新潮文庫、2003年)によると、いくつか英語に関する誤解があるといいます。
たとえば、英語はすべての日本国民に必要という誤解です。ある世論調査によると国民の八割は英語がもっとできたらと思っているようですが、どのような時にそう思うのかというと、海外旅行の時や、外人に道を聞かれた時、映画やテレビを視る時だそうです。そして、仕事で英語が必要な人は、調査対象者の18%しかいなかったそうです。
よって、一生に数回だけ海外旅行にいったり、外人に道を聞かれたりした時のために、膨大な時間を英語教育に費やすのは不合理だといいます。
また、学校の授業時間が無限にあるという誤解です。現在の日本の中高生は、全勉強時間の3分の1を英語に費やしているそうです。にもかかわらず、世論調査によると、使いこなせていると自認する人は1.3%しかいません。これでは、他の教科の勉強時間が奪われるため、能力開発において多くの可能性を失っていることになります。
藤原氏によると、英語教育の強化拡大は、愚民化政策といって過言ではないといいます。英語以外の教科をないがしろにして、国民の知的衰退を確実に助長すると警鐘を鳴らします。
たしかに、仕事で英語の運用能力がある一定以上必要である、あるいは自分の研究分野は、英語圏が最先端をいっているので、英語を通して研究せざるを得ない、というような人以外は、せいぜい、世界の数ある文化のうちの一つとして英語を学ぶということで十分なように思われます。昨今の日本語の乱れを思うにつけ、英語教育のあり方の再考が必要なのだと思いました。
(参考文献)
藤原正彦『祖国とは国語』(新潮文庫、2003年)