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【ワクチンの境界】はしがき

 困難に直面するとその本質が見えるとよく言われますが、それは社会も同じです。戦争や災害あるいはテロや公害など、人類はこれまで幾多の困難に遭遇してきました。その中でも感染症の流行は大きな困難のひとつです。2020年から世界に蔓延したとされる新型コロナウイルス感染症(COVID-19)は、人類が直面したそのような困難の中でも歴史に残る出来事であったと思います。

 新型コロナウイルス感染症は現時点でもまだ完全には収束していませんが、その脅威は発生当初に比べると大きく減少したと言えるでしょう。しかし、新型コロナウイルス感染症とその対策をめぐって、全世界で生じた出来事は、人間の集合としての社会の本質を、良い意味でも悪い意味でも、広く世の中に晒してしまいました。私がそこで一番問題であると思ったことは、新型のウイルスという人類がまだよく分かっていない対象に対して、どうしてそんなに簡単に確信を持って行動できるのかということと、その確信や行動に対して、少しでも疑問を差し挟もうものなら、烈火のごとく反論され、極端な場合は異端者のレッテルを貼って、集団から排除しようとする極めて強い力の存在でした。

 しかも、このような傾向は、それまでは議論の大切さを強調し、多様な社会を目指すべきだと声高に主張していた人たちほど強く見られ、そこでは、多様な価値観どころか、一つの答えしか認めないという極めて頑なな態度が示されたのです。しかも、その態度が一度政策に採用されてしまうと、それはもはや社会のシステムとして自動的に動き出し、個人の力ではとても止められないものになってしまいました。これは、多少の程度の差はあれ、世界中で同じように見られた光景ですから、人間の奥深いところにこのような傾向性が潜んでいることは、ほぼ明らかと言ってよいでしょう。

 しかし、このような社会全体の風潮は、その方向性がたとえ部分的にでも間違っていれば、人間社会に対して大きな害を与える可能性があります。ですから、私たちは、自分自身の確信や行動が常に妥当かどうかを考えて、日々修正しながら日常生活を送らねばならないはずです。そのためには開かれた議論が必要になります。ところが、実際は全く逆で、一旦何らかの社会的な合意のようなものができあがると、それを疑問視することはタブーとされる、全体主義のような状態がそこに現出したのです。

 このような問題意識を持って、本書では、新型コロナウイルス感染症をめぐる問題の中で、ワクチンを軸に考えていきます。なぜなら、ワクチンをめぐる意見の対立こそ、前述の問題を最も端的に表しているからです。もちろん、この問題はワクチンについてだけ生じているのではなく、マスクの着用やソーシャル・ディスタンスの奨励などあらゆる感染症対策に見られるものですし、コロナ感染症の問題だけに限定されるわけでもありません。しかし、新型コロナワクチンは、その中でもこのような問題が最も典型的に表れた例であり、今後の人間社会を構想するうえで、十分に反省しなければならない経験であることは確かでしょう。

 なお、本書はワクチンを批判するものではありません。ワクチンに対しては中立的な立場から、ワクチンへの賛成と反対の境界が社会的にどのように決められていくのかということを議論していくものです。その境界を純粋に個人の意志で決めることができるのであれば何の問題もないのですが、そこに社会的な圧力が権力として加わってくると、個人の自由を制約し尊厳を損なう危険性が生じます。それに対抗しようと思うならば、人間一人ひとりの内面からの倫理が必要になります。ワクチンの境界線は、このように権力と倫理の力学によって引かれていくのです。

 もちろん、このような問題は新型コロナワクチンだけに見られるものではなく、ワクチンはその一つの典型例にすぎません。本書の議論は、これまで人間社会における全体主義的傾向を批判してきた思想の系譜につながるもので、先人たちの主張を活用しながら、議論を進めていきます。その意味で本書は、私のオリジナルな思考ではなく、人間の思考に潜む全体主義的傾向を批判してきた過去および現在の思想家たちの思考を、新型コロナワクチンという文脈のもとで再構成したものと言えます。

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ワクチンの境界 ― 権力と倫理の力学(國部克彦 著・アメージング出版)より

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