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【ワクチンの境界】未知のウイルスとの闘い

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 新型コロナウイルスの脅威は、それまで人類が経験してきた感染症とは異なり、地域および年齢によって、その影響が大幅に異なっています。したがって、本来は、そのリスクについての慎重な判断と、リスクに応じたきめ細かい対応が求められるべきものでした。

 ところが、当初は新型コロナウイルスの脅威がどの程度か分からないこともあり、また急激に悪化するかもしれないという病態の特徴から医療体制が逼迫する事態が世界中で生じ、世界各国は厳しい感染防止措置を取りました。そして、2020年末には新型コロナウイルスに対する切り札として、ワクチンが投入されることになります。

 新型コロナワクチンにはいろいろな製法がありますが、アメリカやヨーロッパで開発され日本へも導入されたワクチンは、これまで一般的であった病原体の不活性化ワクチンではなく、遺伝子ワクチンという人類にほぼ初めて適用される新しい薬剤でした。しかも緊急事態ということで、各国政府は治験中のものを特別に承認して、長期的な効果や安全性が確かめられていない段階で接種を開始しました。

 新型コロナウイルスは人類にとって未経験のウイルスでしたが、それに対する各国政府の対策はほぼ同じで、その対策に対する国民の反応も、程度の差はあれ共通するものでした。どの国でも感染症対策やワクチンに反対する国民は一定数存在するものの、多くの国では過半数を超える国民が政府のロックダウンやワクチン接種を受け入れたのです。

 従ったのは国民だけではありません。科学者や専門家の多くは、政府の政策を支持する発言を繰り返し、普段は政府の政策に批判的なマスコミも基本的に政府の政策を支持しました。SNS運営会社に至っては、政府を支持するだけではなく、ワクチンに対する批判や疑問を投げかける投稿を次々と削除するまでになりました。

 その一方で、国民生活や生命に大きく影響を及ぼす政策であるにもかかわらず、この問題についての国民の間での開かれた議論は、世界のどこを見ても全くなされませんでした。民主主義のためには徹底的な討議が必要と普段はあれだけ主張しているマスコミも、この重大な問題について国民的な議論が必要であると声をあげることはなく、むしろ異論を「デマ」と称して議論を封じるように動きました。

 逆に顕在化したのは、政府の方針を疑問に思ったり、検証したりすることもなく、それを素直に信じて行動する人々の動きです。一方、政府の方針に従わない人々が、社会から無責任であると厳しく糾弾される傾向が生まれました。マスク未着用者やワクチン非接種者は、それだけで社会的批判を浴びるようになり、国に行動を制限されることも常態化するようになりました。

 新型コロナウイルス感染症を克服することが、人類の共通の課題であることは間違いありません。しかし、その克服の仕方にはいくつもの方法があるはずです。しかも、ウイルスのリスクが年齢や地域によって異なるのですから、単純な対策では、対策そのものが二次被害を拡大する恐れすらあります。さらに、リスクに対する個人の感じ方は様々で、それを一様に国家が規定することは人権に触れる問題でもあり、倫理の問題に関わります。

 このような複雑で重大な問題に対処するためには、ウイルスのリスクとその対策について、主権者である国民の透明かつ公の場での議論が必要なはずです。新型コロナウイルスの毒性は、その程度の時間すら私たちに与えないほど深刻なものではありませんでした。実際に議論する時間は十分ありました。

 ところが、現実はそのようには進まず、開かれた議論を省略したまま、採用した感染症対策の徹底の方向へ加速度をつけて進みました。特に、ワクチンについてはヨーロッパを中心に義務化の動きが非常に強まりました。感染症対策は基本的に人間の自由を制限するわけですから、もし間違っていたら、人類に大きな損害をもたらす危険をはらんでいます。もちろん、対策の遅れは人命にかかわるわけで、迅速な対応が求められることも事実です。しかし、対策は必ず負の効果も伴いますから、その効果を常に検証しながら進めることが求められます。

 しかし、この2年間の世界の動きを見る限り、社会は、過去の対策の効果を検証することなく、しかも感染状況にすら関係なく、一旦採用した対策をさらに強化する方向へ進んでいきました。それはどうしてでしょうか。本書では、このような問題意識から、感染症対策の中心となったワクチン政策を軸にして、それがもたらす倫理的問題を中心に検討していきます。ワクチンを中心に取り上げる理由は、そこに政府による感染症対策の進め方と社会の受け入れ方の問題が凝縮されていると考えられるからです。

ワクチンの境界 ― 権力と倫理の力学(國部克彦 著・アメージング出版)より

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