検問中の警察が、17歳の少年を射殺してしまった事件を契機に、フランスでは暴動が発生しました。グローバリゼーションの流れで多くの移民を受け入れてきたフランスでは、社会が分断され、伝統と文化が徹底的に破壊されてしまっているのです。もう庶民も疲れ果てています。
翻ってわが国日本をみると、多少様相は異なるものの、確実に日本の伝統と文化が崩れ去っていることがわかります。日本企業における長期雇用システムもなくなりつつあり、貧富の格差は拡大しています。教育の崩壊も止まりません。伝統的な建築物も壊され、街中の緑も伐採され、効率が優先されることが目につきます。すべてが短絡的で、精神的に貧しい価値観が蔓延しているようです。そして、多くの日本人も精気を失ってしまっています。
また、日本語の乱れは目を覆うばかりで、このままでは日本の文化を守り切ることは難しいかもしれないと感じます。社会は進化しているので、これも変化の一つとみることもできますが、どこへ向かっているのか、誰も確信が持てない状態だと思います。
そんな中、文語が廃れないために、文語の読み書きができる人を増やそうという運動が、文語の苑という団体で取り組まれています。その活動は、もう20年以上も続いているといいますが、活動自体も徐々に衰退しているそうです。メンバーの高齢化が止まらず、次の世代を担う人材がいないため、存続すら危ういということです。
錚々たる発起人メンバーではじまった活動も、そう簡単には目的を達成できない。どれだけ伝統や文化を守るためには、エネルギーが必要なのかを思い知らされます。
愛甲次郎『世にも美しい文語入門』(海竜社、2008年)によると、文語はラテン語、漢文、古典アラビア語と並んで世界四大文章語の一つといいます。そんな文語を守り、復興させることで、日本の伝統を維持することが試みられているのです。
問題は、この文語を学ぶこと、そして継続して使用することが、今の日本の日常では困難になっていることがあります。私も過去に何度も挑戦し挫折しました。鴨長明の『方丈記』や、森鴎外の『鴈』を書き写すようなこともしました。しかし、日常で使う機会がないので、どうしても続きません。そうです、文語はまさしく「死語」になりつつあるのです。
死語という意味ではラテン語も同じです。いまだにフランスでは中学校でラテン語が学ばれていますが、パリのカルチェ・ラタン(「ラテン語界隈」の意味)でラテン語が話されている場面に出くわすことはありません。それどころか英語が飛び交っていることすらあります。それだけ、伝統と文化を破壊することは容易でも、それを維持するためには、破壊のためのエネルギーの何倍ものエネルギーが必要なのだということです。
できることなら、文語のために文語を学ぶのではなく、戦前の歴史的資料を調査するためというように、文語を道具として一定の目的に取り組むことができれば、少しは文語の維持に役立つのかもしれません。複雑なテーマでもあるので、別の機会にこの点は検討してみたいと思います。